禍転じろ福と為せ。

実によくある備忘録。

一日コレ一本、365日分の野菜。

新年あけましてメリークリスマス。

日記を放置して一年が経ってしまった。

いやはや何とも流石僕。

皆様は充実した2022年を過ごせましたでしょうか?

2022年は僕にとってかなり厳しい年でありました。

気持ちの整理をする為に一年をずらーっと振り返りたいでございます。

 

 

四月になり新しい学年、クラス、担任を迎え、気持ち新たに猪突猛進するつもりだった。

しかし、五月頃に徐々に調子を崩し休みがちになり、薬の量も倍プッシュ。

今振り返ると就活への不安を抱え込みすぎたことが大きいと思われる。

 

前世で理系大学生を三年間していたが、就活を経験しなかったので未知の領域、ココ、ナラッテナイ!!!である。

 

未知への恐怖というものは人間誰しも少なからず感じるものであると思っている。

不確かな未来よりも、確証のある今を好む。

優しい匂いのする暖かな今を抱いて眠りについていたい。

 

一度動かなくなった体に油をさし、鞭を打ち、起動させるのは僕にとって容易な事ではなく、かなりの時間を要した。

病院へ通うのにも体力が必要だ。

ベッドから起きることが出来ず、何度キャンセルしてしまったか分からない。

 

なかなか通院出来ない僕をお医者様は責めなかった。

何なら、行く度に「よく来たね、体調大丈夫?」と声をかけてくれるのだ。

皆にそう言っているのかもしれないが頑張って足を運んで良かったと思える瞬間だ。

 

お医者様から薬を処方して頂き、とにかく踏ん張ろうと思ったが、薬も合う合わないがあり、その調整をしている間に前期は終わりを迎えた。

ギリギリまで休んでしまった、何ならアウトだと思う。

 

夏休みは関東に行った。

友達の家に泊まったり、グループで集まりコテージでバーベキューをしたり、さわやかのハンバーグを一時間並んで食べたり、とりあえず色々した。

八月の初めに関東へ行って帰ってきたのは、ほぼ八月の末だった。

 

流石に丸々一ヶ月外に出ていたのでベリー金欠であり、かつ人様にお金を借りていたので死に物狂いで稼いだ。

よくあんなに働けたと思う。

あと、鬼めんどくさい書類を書きまくり、バリだる診断書を受け取り、年金を申請した。

 

夏休みが明け、後期が始まった頃。

諸事情で完全にメンタルが狂ってしまった。

やはり情緒不安定というのは人にうつるものである。

負の感情に触れ続けると僕は気分が落ち込んでしまいやすい。

 

この辺からまた病院に行けなくなってしまった。

薬をきちんと飲まないと「シャンビリ」に襲われる。

顔の筋肉がびりびりとし上手く表情を作りにくくなり、嫌な音の耳鳴りがなかなか止まない。

ログインボーナスが途切れた代償である。

 

十月はインターンに行けず、学校で就活対策をしていた。

初日に、「インターンに行くんじゃねえぞ」と遠回しに圧をかけてきた就職担当が現れ、教壇に立ち、長々とプリントの内容を説明していた。

就職担当の話はまたするかもしれない。

この人のせいで就職に希望を見い出せなくなった。

一限が終わった頃には、担任にあの就職担当が怖くて辛いと言い、泣きかけていた。

 

この一ヶ月は多分僕にとっては、時間を無駄遣いしただけになった。

もっとやりたいことがあったが、朝から晩まで寝たきりでトイレすら頑張らないと向かえない体には、世界全てがSASUKEでしかない。

 

十一月は少しずつ踠いて出席を何とか増やそうとした。

課題もどうにかこうにかと触ろうとした。

病院にちゃんと通院した。

元気を取り戻そうと人と遊んだりした。

好きな人に喜んで欲しくてプレゼントを渡した。

努力マンになろうとした。

動けてんじゃん(当社比)だった。

 

十二月は気がつけば終わっていた。

人より休んでいたものの、登校できる日は増えていた。

 

冬休みに入ってすぐ実家に帰り、猫神様の下僕になった。

毎日布団の半分を取られた。

寝返りが打てず、身体の半分が石になってしまった。

でもその行動が愛ゆえのものと分かっているので堪らない。

もう既にキャットロスである、吸いたい。

震える。

 

 

こんな感じのしょうもない一年であった。

読んでいて途中で飽きただろう、僕も書いていて飽きた。

やっぱり、くだらない文章ってのはやかんの水のようだ。

 

今は朝の六時半だ。

まだ寝ていないのは宜しくない。

頭の中の声に身体を委ねることにする。

これが中々に入眠剤になる。

 

 

最後に、

今年もよろしくハッピーハロウィン。

 

 

あけましてめでたいのか否か。

2021年も終わりを迎え、

新しい年がやって来ましたね。

皆さん、いかがお過ごしでしょうか?

新年早々、バリバリ動いて遊んで楽しむ人もいれば、はたまた、ぐうたらごろごろ夢うつつな寝正月の人もおられるでしょう。

ちなみに僕は、三賀日は体調を崩し、寝たきりで「あつまれどうぶつの森」で島を開拓していました。

そして、今から大学時代の面子と飲み会に向かっております。

 

19時待ち合わせだが早めの18時に向かうと堂々と宣言した奴が、本来の待ち合わせ時間に間に合わないという何ともまあ無様な姿を晒してしまっている。(大変申し訳ございません……ゆるちて)

 

この友人達とはいつまでこんな風に飲みに行けるのか、遊べるのか。

そんなことを考えて若干の寂しさを感じながら、電車に揺られる。

 

「一生の友人でありますように。」と心の底から願う僕がいる。

 

クソガキ時代

夏休みが終わり、後期が始まりましたね。

皆さん登校出来てますでしょうか?(ブーメラン)

 

夏休みと聞くと小学生時代を思い出す。

教室の机にギチギチに詰まった教科書とプリント、校庭で拾った綺麗な石や潰れた猫じゃらしが入ったお道具箱をかばんにぶち込む。

そして、トマト嫌いで食べられないのに育てたプチトマトの苗を抱えて家に帰るミッションをこなさねば夏休みは始まらない。

 

私の机は四次元ポケットだった。

中身を出しても、奥底にぐちゃぐちゃのプリントが沢山入っている。

何ヶ月も前に渡された保護者宛の手紙が出てきて、親が鬼に変貌する様が脳裏を過ぎる。

 

子供の夢と希望の詰まった玉手箱を開けば、あら不思議。

大人の今考えればゴミでしかない物が宝物として納められているではないか。

花壇の軽石を砕いて粉にしたピンクの砂が瓶の中で煌めく。

練り消しという名のクラス内の通貨が丸められている。

そして、こども芸術家の折り紙アートの山々はほぼ全て『ぱっくんちょ』というタイトルが付いている。

 

今思えば、あの頃が一番何も考えずに生きていた、生きることに喜びを感じていた時期だったのかもしれない。

そんなことを考えて、気分が落ち込んだ僕はレキソタン5mg×12錠(覚えてない)、エビリファイ3mg×2錠、アトモキセチン40mgをストゼロを摂取したのであった。

 

梅雨は幕を引いた

皆さんいかがお過ごしでしょうか。

季節は春を過ぎ、とうとう梅雨入りですね。

毎日毎日雨が降り、部屋干しの洗濯物が乾きにくくて嫌になりますよね〜。

 

僕は天気病なので、低気圧などで天気の悪い日はすこぶる体調が悪くなる日々が続くのかと、

地獄の幕開けを感じております。

 

(5月初旬に執筆)

休憩ならぬ休憩。

 

小休憩。

最近の出来事でも書きましょか。

この前の更新が遅れた言い訳って奴ですね。

 

本文は人によっては不快に感じる内容を含んでいます。

見たくないと思ったらブラウザを消し、ツイ廃生活に戻りましょう。注意で。

 

 

 

僕はうつ病持ちだ。

6年前ほどから良くなったり悪くなったり繰り返している。

よく病んだツイートで溢れかえるのもそのせいだ。

なるべく見えないように配慮しようとは思っているが、そこまで考えられない時もあるので申し訳ない。

 

自分では明るく元気にポジティブに生きていたいのだが、こいつのお陰で何でもない些細な出来事で絶望しすぐに全てが嫌になる。

自分は死んだ方がいい。

否、死なないといけない。

そう考えるように指示されて死にたがるのだ。

 

 

その日も頭の中の厄介が猛威を奮っていた。

長めの休みは特に元気らしく、僕の元気をきっと飯にしているんだと思う。

出来る限り表情や振る舞いといったもの、つまりは表向きにはネガティブを出さないようにしているが今日はダメだった。

 

「しんどいしんどいしんどいしんどい…」

「何をしてても悲しい、何もしなくても悲しい…」

 

何度も何度も脳裏を通り過ぎ、いつしか落ち込んだ気持ちがメビウスの輪になる。そこを鬱が滑り続け僕を嘲笑っているような気分だ。

 

日が沈むと余計に勢いを増す。

あいつは暗闇が好きなんだよなあ。

 

あ、もう無理だ。

 

自暴自棄になった。

少しでも楽になりたい。

ここに居る実感が欲しい。

そんな気持ちでいっぱいの時は自虐に走ってしまう。

 

 

先日買った市販薬。

病める人達の中では有名な薬だ。

実際は抗ヒスタミン薬であり、蕁麻疹などのアレルギー反応を抑えるものだが用量を超えて飲むととんでもない薬になる。

 

 

初めて飲む薬なのでおすすめと言われる15錠を手に取る。

こんな小さな錠剤でそんな事になるのかと疑心暗鬼になりつつも酒で流し込む。

13度のアルコールが喉を刺してくる。

後はベッドに横になり、身体に変化が現れるのを待つ。

 

 

30分ほどして変化が現れる。

身体が軽くなりふわふわとしてくる。

浮き上がるような感覚により気持ち良くなって多幸感に包まれる。

伸ばしている脚がそわそわとしてくる。

バタバタと動かしたくなっていく。

 

変な感じ。なんか楽しい。

 

しばらくその感覚に浸ってみる。

途中で酒も足してダブルでふわふわ感を楽しむ。

 

尿意を感じたのでベッドから体を起こし、御手洗へ向かおうとした。

すると足がいつもの3倍の重力を感じた。

重たい。

足が地球に引っ張られている。

万有引力と遠心力の公式が頭に浮かぶ。

 

 

頭を揺らしながら用を足し終えると、壁に目が吸い付いた。

何も無いはずの壁に模様が見える。

じっと同じ場所を見つめていると糸のような蟲がうじゃうじゃと蠢いているように見えた。

他の壁や天井でも試した。

やはり蟲が蠢いている。

 

おもしろ、楽しくなってきた。

 

この感覚から醒めたくないと、5錠追加で飲んだ。

しかし、段々と幻覚が薄れていく。

30分経っても薄れるばかりなので更に5錠を腹に入れた。

酒も一緒にごくりと。

 

 

しばらくすると段々身体がおかしくなってきた。

横になっていると脚がムズムズムズムズする。

脚の中にヤスデのような毒虫が這い回っている。

じっとしていると脚が持っていかれそうになるので、布団を永遠と蹴ったり、脚をじたばたとさせ抗う。

 

天井を見ていると廻り縁に目がいった。

廻り縁の周辺に大量の羽蟲が集まり、もぞもぞと動いたり羽をばたつかせているではないか。

気持ちが悪い。

だが、視線が羽蟲に縛り付けられていて他のものを見ることが出来ない。

 

副作用の眠気に襲われ、とんでもなく眠たくなってきた。

しかし、吐き気のような気持ち悪さが邪魔をして寝かしてくれない。

高熱を出した時に魘されるような感覚に近い。

ウンウンと唸りながら身体をくねらせ、不快感と脚のゾワゾワを取り払おうとするが全く収まる気配はない。

 

 

不快感と闘っているうち、気が付けば眠りについていた。

起きた時の不快感は力尽きる前と全然変わらない、何なら口渇の症状まで出てきて悪化していた。

渇いて仕方がない喉をお茶や水で潤そうとがぶ飲みするが少し経つとすぐに渇くのだ。

 

 

その後、次寝て起きるまで気持ち悪さが抜けず身体がとても重たくなり大変しんどいものだった。

「この薬をODするなら15錠にしておこう、調子に乗って増やすと地獄を見ると分かった…。」と心の中で誓った。

次が無いと良いのだが……。

 

 

薬の用量を守らず過剰摂取する事、すなわちODは精神を病める者にとって切り捨てる事の出来ない自傷行為の一つである。

 

この日記はODを推奨するものではなく、ODすると僕のように幻覚・幻聴、不快感、吐き気、その他副作用で身体がおかしくなるため、絶対やるべきでは無いという忠告であることを認識しておいて欲しい。

 

行っている僕自身もやりたくないが、辛くなると後先考えず動いてしまっているのだ。

 

皆さん、今日も健康で文化的な最低限度の生活をお過ごしください。

 

人生の枷②

 

さあ、既に更新が三日も遅れている。

どういう事なのだろうか…。

完全に気分が鬱々としていたので、無茶して更にしんどくなって書けなかったという言い訳をさせて頂こう。

この事についてはまた話そうと思う。

バカチンが〜♡とお叱り下さい。

 

昔話の続きを書いていきますか。眠たい目を擦って書いてるのでおかしい所があるかもしれない。

まあ、暇つぶし程度で読んでください。

 

 

 

父の再婚が決まり、彼女はレベルアップのジョブチェンジ

私の義母になった。

 

彼女は私達と寝食を共にすることになった。

小学生の頃から、母のいない生活に慣れていた私にとってそれからの毎日は「違和感」に満ち溢れていた。

 

お互いを知らない人間が自分の活動拠点にずっといる。なんなら掃除洗濯もしている。

毎日の食事も今まで口にした事の無いようなテイストの料理に変わる。

何なんだこれは。

 

それまで母親は家にいなかったが、母親代わりの人間はいたのだ。

それは祖母である。

 

私は祖母の作る料理が大好きだ。

十年以上使っても慣れないパソコンを使い、人差し指でタイピングをしてレシピを調べ、レシピを見たのにも関わらず目分量で食材や調味料を入れていく。

雑なように見えるが誰にも真似出来ない「また食べたい」と思える味を作り出すのが大変上手な人だ。

私も父も妹もその味で育ってきた。

 

だが、我が家の料理長は家に来たばかりの新人になってしまった。

新人料理長は料理が下手という訳では無い。しかし、特別上手という訳でもない。

では何が不満だったのか?

 

「我が家」の味を知らない事だ。

 

彼女は知人の料理教室に通っていた事もあり、料理へのこだわりが強い方だ。

お気に入りのレシピ本を開き、分量を守り丁寧に作っていく。出来上がった料理はこだわりを感じる。口に運ぶと食べ慣れない味がする。

何だろうか…

 

「味薄くないかな?」

 

家族が口を揃えて言った。

確かに味が薄い。我が家は醤油、ソース、マヨネーズ、油大好きの塩分摂りすぎ生活病まっしぐらな濃いお味大好き一家だ。

祖母の料理は醤油がベースのものが多いので余計にそれを感じたのであろう。

 

彼女は元々薄い味付けの料理を食べて育っていたので、薄い味が普通だと思っている。

ここでギャップが生まれる。

 

彼女は努力家なのでそれからなるべく私達に合わせた料理を作ってくれた。流石に目の前で醤油をかけたり、塩を足したりするのを見たら良い気分にはならないだろうし…

 

毎日我が家に合わせていく料理を食べても、私には何かが足りなかった。

私はとにかく祖母の料理が食べたくて仕方なかった。「母」の味を楽しみたかった。

 

茄子とひき肉を汁まで食べたい。

大根葉とじゃこをご飯にいっぱい乗せて食べたい。

ばあちゃんの作るご飯食べたい…。

 

妹も多分同じようなことを考えていたのかもしれない。まだ小学生だったので上手く気持ちを表現出来ずよく食事を残していた。

野菜嫌いなこともあって、栄養バランスを考えて野菜もしっかり入った料理は、食わず嫌いのお子様の口には合わないようだった。

 

食の好みが合わないことはかなり痛い。

中学生の私にはかなりストレスだった。

ここから更に溝が出来ていく。

 

 

四月か五月になった頃、また父が私と妹に話があると呼んだ。

私には呼ばれた理由が見当もつかなかった。

 

「大事なお話があります。」

父が改まって話し始めた。

 

「○○ちゃんとの赤ちゃんが出来ました。」

またもや仰天。早くないですか。

 

「産まれるのは順調なら年明け頃になると思う。赤ちゃんが産まれるまで○○ちゃんのことサポートして欲しいと思ってる。」

頭の中はそれどころでは無い。

いつの間に。

 

思春期のマセガキは脳内で保健体育の授業で聞いた十月十日の計算をしている。

父と彼女は夜の営みをどのタイミングで行っていたのか名探偵の如く推理している。

二人の寝室は同じ…。

二人だけで出掛けることも無かった……。

つまり犯行現場はそこしかない。名推理。

 

夫婦となればやることやるのは分かるのだが、思春期にもなる年齢の子供には生々しく感じるのも仕方がない。

 

産まれてくる赤ちゃんには何も罪はないし、喜ぶべき事なのに本心で喜べない。

自分とは違う母親の弟妹。複雑だ。

父と実母は何故離婚してしまったのだろうと要らぬ事ばかり考えてしまう。

 

自分に付いた枷が少し重くなったのを感じた。

 

人生の枷①


義務教育という名の枷を掛けられていたのも、もう七年前。

大人の真似事でブログを書いた事もあったが、気付けば更新していない。


そしていつの間にやら、酒を嗜み、深夜に煙草を燻らせるごく一般的な頭の悪い成人になっていた。

三日坊主になるかもしれない事は否めないが、気が向いた時に認めるお気楽な日記としてまた始めてみようかと思う。



模倣をしていた頃は、学校に毎日通い申し分無い成績を取り、父に言われた「体調不良以外では学校を休んでは行けない」「七十点未満は取ってはいけない」というルールを守っていた。

父子家庭の我が家では、父の言葉には従わなければならないというルールがあると思っていた。叱られて次の日も同じような事で叱られてを繰り返し、毎日のように説教喰らっていた私にとって、父は厳格で怖い存在だと思っていた。

父より恐れる人物はいないと思っていた。


そこに刺客が現れたのだった。



彼女が初めて現れたのは、私が中学二年生の時の大晦日だった。

父が小学校の同級生を家に招き、同窓会兼忘年会を開いていた。そこに彼女はいたのだが、その日は父の友人が数人集まっていた事もあり、恥ずかしがり屋で人見知りな私は隅でひっそり食事していた。彼女と話した記憶は無くあまり認識していなかった。


それから一、二ヶ月ほど後だろうか。彼女はまた家に訪れた。

今度は父の友人が他に来る訳でもなく、彼女一人が来たのだった。父はよく友人を家に呼んでいたこともあり、私もあまり気にはしていなかった。ただ、リビングでソファーに寝そべりDSが出来ないので早く帰らないだろうかと「なんてまあ失礼な子供なんでしょう!」と叱責を頂きそうな事しか考えていなかった。

とりあえず、一言だけ挨拶して普通に過ごしていたが彼女に何か嫌な雰囲気を感じ取っていた。多分この人は自分の苦手なタイプだろうなと。


しばらくして父が私と妹を呼び、食卓の椅子に座るように言った。


「二人に言わないといけない大事な話があるんだけどね。」

何か嫌な予感がした。


「実はパパはこの人とお付き合いしてます。」

おおおう、それ以上言わないで欲しいなぁ〜。


「それでパパはこの人と結婚したいと考えてるんだけどね」

あーーーー。言っちゃいましたよ。


「パパだけじゃなくて二人の家族、『お母さん』になる訳だから、結婚してもいいか聞きたいんだ。」

げげげ、まーじかーーーー。


いきなりの事で、頭の中でサーカスが開催された。

ピエロが一輪車に乗りながらジャグリングし、ライオンが火の輪をくぐり、空中ブランコ乗りが宙を飛び交った。


「二人がイヤなら結婚は出来ないと思ってる。ちゃんと二人の気持ちは尊重したい。」

待て待て待て。実質初対面で何も知らないこの人がいきなり家族になるんか???急すぎるだろ……脳内サーカス開演してもうたよ?

え?てか付き合ってたん????いつから????いつからよ!?!?!?

ファー!!!



「どう思う?」

父の言葉で我に返る。

父は離婚してしばらく経っていたが再婚はしておらず、私の中でも再婚するということは全く考えても無かったのでただただ仰天カーニバルが続く。だが、顔には出ていなかったと思う。出ていなかったと言うよりは、出さないように努めた。

私達にそんなことを聞かれたって困るだけなのだ。しかし、私ももう中学三年生になるし、来年には高校生だ。大人に近い思考くらいは出来る。


「結婚してもいいよ。」

父だって、一人の男なのだ。

恋愛くらいするだろう。


私達二人の意見によって彼の幸せが失われるのは間違っている。人の結婚に口出しなんてすべきでは無い。この先の人生、父がパートナー無しで子供二人と生きていくのは祖母も心配するだろう。この人と結婚することが父の幸せならば……

私は不運なことに、とってもお利口ちゃんだったのだ。


そしてこの時、私は今後の人生に「義理の母」という新たな枷を付けて生きていくことになるとは想像もしていなかったのであった。